インターネット上の美術愛好家コミュニティやSNSでは、『唐獅子図屏風』を巡る様々な説が飛び交っています。中でも根強く語られているのが、「本能寺の変が起きた際、豊臣秀吉が備中高松城攻めの陣中で毛利方に見せつけ、講和の証として毛利家に贈った」というドラマチックな「陣中屏風説」です。
しかし、近年の歴史考証および現存資料の調査によって、この説には慎重な見解が示されています。豊臣秀吉 狩野永徳 関係の真相を検証すると、天正10(1582)年の備中高松城水攻めの当時、永徳は秀吉のみならず織田信長直属の筆頭絵師として安土などで極めて多忙を極めており、戦陣へ携帯するための屏風として本作が制作されたという同時代史料は確認されていません。また、現存する屏風の巨大な寸法や金箔の厚み、重量を考慮すると、野戦の陣幕内で手軽に開閉できる性質のものではないことも明らかです。
有力視されているのは、もともと城郭や御殿の大広間を飾る「壁貼り付け絵(障壁画)」や、儀礼空間を仕切る巨大な立て看板状の衝立であったものを、後世に持ち運び可能な屏風へと仕立て直したという見立てです。秀吉と永徳の過酷なまでの主従関係――聚楽第の障壁画制作において、昼夜兼行の過労から永徳が48歳の若さで急逝した事実も含め、権力者の際限ない要求と絵師の極限の格闘から生まれた傑作であることこそが、伝説を上回る歴史のリアルです。