1920年、チェコ軍の脱出が完了し、白軍(反革命派)の首領であったコルチャークが処刑されると、欧米各国は出兵の理由が消滅したとして速やかに兵を引き上げました。常識的な国家戦略があれば、日本もこのタイミングで完全撤兵すべきでした。しかし、日本軍の主力撤退は1922年10月まで遅れ、尼港事件の「保障占領」を名目に占領した北樺太(サハリン北部)に至っては、1925年の日ソ基本条約締結まで撤兵しませんでした。なぜ日本だけが、これほどまでに引き際を誤ったのでしょうか。
第一の理由は、サンクコスト効果と軍部のメンツです。すでに数千人の戦死者を出し、数百万人規模の予算を投じていた参謀本部は、「何ら領土的・権益的見返りを得ずに撤退することは、国民と英霊に対して申し開きが立たない」という硬直した思考に縛られていました。失敗を認めて即座に損切りすることができない組織の病理が、泥沼の長期駐留を招いたのです。
第二の理由は、統帥権の独立を盾にした軍部の暴走と、政府の統制不全です。原敬首相は出兵の早期収束を模索していましたが、陸軍は作戦行動の自由を主張して占領地域の維持に固執。政府と軍部の間で戦略の統一が図れないまま、軍部が既成事実を積み重ねていくという構図は、後の満州事変から太平洋戦争へと至る破滅のプロトタイプ(原型)となりました。
最終的に日本を撤兵に追い込んだのは、国内の反戦世論ではなく国際社会からの冷徹な圧力でした。1921年から開催されたワシントン会議において、アメリカやイギリスは日本のシベリア駐留と領土的野心を厳しく追及。孤立無援となった日本政府は、対外的な信用失墜と経済的孤立を回避するため、何一つ実質的な成果を得られないまま、這う這うの体で全面撤退を受け入れるしかありませんでした。