なぜイギリスは栄光の孤立を捨てたのか?日英同盟の真相と帝国の限界

なぜイギリスは栄光の孤立を捨てたのか?日英同盟の真相と帝国の限界

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防衛政策の行き詰まりに直面したイギリス外務省で主導権を握ったのが、1900年に外相に就任したランズダウン侯爵でした。当初、イギリスはドイツとの同盟を模索したものの、大陸での主導権を狙うドイツ側の要求と折り合わず交渉は決裂。そこで急速に浮上したのが「栄光の孤立と日英同盟の経緯」の核心である日本との接近でした。

当時の日本は日清戦争に勝利したものの、三国干渉によって遼東半島を清へ返還させられ、満洲を占領し朝鮮半島を狙うロシアの脅威に単独で怯えていました。駐英公使の林董や外相の小村寿太郎がイギリスとの協調を熱心に働きかけていたタイミングに、英国側の計算が合致したのです。当時の外交記録や回顧録には、ランズダウン外相が閣議で「極東において日本ほど信頼に足る海軍力と精強な陸軍を備えた友邦は存在しない」と強く主張した経緯が記録されています。

1902年1月30日、日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)がロンドンで調印されました。その内容は、締約国の一方が第三国と交戦する場合は他方は厳正中立を守り、二カ国以上と交戦する場合は軍事介入して共同防衛を行うという画期的な条約でした。これにより、日本はロシアと単独で戦う後ろ盾(フランスなどの参戦を牽制する防波堤)を手に入れ、イギリスは自国の主力艦艇を極東から引き揚げて北海防衛に集中させる戦略的フリーハンドを確保したのです。

この日英同盟こそが、大英帝国が長年守り続けてきた「不戦同盟拒否」の鉄則を正式に廃棄した歴史的瞬間でした。一度開いた同盟の扉は加速度的に広がり、1904年には積年の宿敵であったフランスと植民地権益を整理して英仏協商を締結。さらに1907年にはロシアとも妥協を図り英露協商を結びます。こうして形成された「三国協商への転換」は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と対峙する強固なブロック構造を生み出し、第一次世界大戦の火種へと繋がっていったのです。

山田 真由
著者

山田 真由

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