ソーシャルメディア上では、「クジラの糞=臭いのに香水になる」「海辺の異臭を放つ塊はすべて宝の山」といった極端な誤認が散見されます。しかし、現場の真実はまったく異なります。
まず押さえるべきは、クジラの糞の匂いと竜涎香の芳香は次元が異なるという点です。排泄されたばかりの通常のクジラの糞は、オキアミや魚が強烈に腐敗したような生臭さと刺激臭を伴い、周囲数百メートルに強烈な悪臭を放ちます。この生の糞がそのまま香料になることは絶対にありません。
一方、香料業界で珍重されるアンバーグリスの本物は、海中を漂流する数十年の間に悪臭成分が完全に揮発・分解されています。熟成された本物の塊は、土のような温かみ、煙草、白檀(サンダルウッド)、乾燥した海藻、そしてほのかな甘みが複雑に混ざり合った、極めて気品ある香りを放ちます。
古代から現在に至るまで、竜涎香が重宝されてきた最大の理由は「保留剤(フィキササティヴ)」としての機能にあります。竜涎香の主成分である「アンブレイン」は、他の揮発しやすい花の香りや柑橘の香気成分を自らの分子構造内に包み込み、香りの持続時間を数倍から十数倍に引き延ばす奇跡的な特性を持っています。合成香料が発達した現代でも、天然のアンバーグリスが醸し出す複雑な深みと定着力は、一流メゾンの最高峰パフュームにおいて代替不可能な原料として君臨し続けています。