その一方で、ネットコミュニティやSNS(X・知恵袋など)を巡回すると、「手のひらを太陽に 怖い理由」といった検索ワードが頻繁に浮上します。実際、現代のリスナーや子育て世代の親たちからは、次のような生々しいリアクションが数多く寄せられています。
「子供の頃は元気に歌っていたけれど、改めて歌詞を聞くと『血潮が流れる』『ミミズだってオケラだって』というフレーズの生々しさにゾワッとする」
「『生きているから悲しいんだ』という一節が、子供向けの歌にしては妙に重くて影を感じる」
なぜ、一見明るい童謡に対して「不気味」「怖い」という感情が引き起こされるのでしょうか。その実態を臨床心理学的および感性工学の観点から深掘りすると、現代社会が漂白してきた「生のグロテスクさ」と直面させられることへの本能的な拒絶反応が見て取れます。
高度に清潔化された都市環境で暮らす現代人は、動物の死や流血、泥にまみれた土壌生物と隔離されて生活しています。その防壁のなかに、突如として「ミミズ」「アメンボ」「赤く透ける血潮」という無加工の生命サインが放り込まれることで、心理学でいう「精神的アンキャニー(不気味の谷)」が生じるのです。
しかし、この本能的な恐怖こそが、やなせ氏の計算された本質に他なりません。人間にとって都合の良い愛玩動物ばかりを並べるのではなく、土の底を蠢く害虫や不遇な生き物、そして体液の匂いまで包括して「同じ一つの命」として捉える。耳当たりの良い綺麗事に終始しない生々しい描写があるからこそ、この歌は時代を超えて聴き手の皮膚感覚に爪痕を残し続けるのです。