アジア初のオリンピックは東京!1964年開催の真相と幻の1940年

アジア初のオリンピックは東京!1964年開催の真相と幻の1940年

アジア初のオリンピックは東京!1964年開催の真相と幻の1940年の見逃せないポイントを一挙に解説しました。

歴史の教科書では1964年がアジア初と記されますが、歴史の針を巻き戻すと、日本はそれより四半世紀も早い1940年(昭和15年)の第12回大会の招致に成功していました。これこそが歴史ファンの間で知られる1940年幻の東京オリンピックです。

当時、アジア開催を悲願として世界中を奔走したのが、講道館柔道の創始者であり日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となった嘉納治五郎でした。「オリンピックは欧米だけのものではない。東洋文化と西洋文化の融合こそが真の平和をもたらす」と説いた嘉納は、持病の悪化と闘いながらも1936年のベルリンIOC総会へ出席。激しいロビー活動を展開し、ライバル都市であったヘルシンキ(フィンランド)を36票対27票で破り、見事に1940年大会の東京招致を勝ち取りました。

しかし、時代の奔流は非情でした。翌1937年に日中戦争が勃発すると、軍部を中心に「戦時にスポーツの浮かれ騒ぎをする余裕はない」「資材をスタジアム建設に回すな」という強硬な反対論が噴出。国際的にも対日批判が高まり、1938年7月、日本政府はついに大会の開催権を返上することを閣議決定しました。

招致の最大の立役者であった嘉納治五郎は、返上決定のわずか2か月前、カイロでのIOC総会からの帰国途上に船内で客死(享年77)。自らの悲願が戦争によって踏みにじられる結末を見ることなく世を去りました。この「幻の1940年大会」の無念と返上の汚名こそが、戦後の日本人関係者たちに「必ずや自らの手でアジア初のオリンピックを成し遂げなければならない」という強烈な執念を植え付ける原動力となったのです。

池田 達也
著者

池田 達也

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。