戦火のシリアスな記録と対をなす『断腸亭日乗』のもう一つの大きな読みどころが、日々の食事と浅草カルチャーへの偏愛です。戦後の荷風は毎日のように浅草に通い詰め、踊り子たちの楽屋に入り浸りながら、劇場裏の雑踏や大衆食堂を愛しました。
荷風の日記には、銀座や浅草で食した日々の献立が克明に記録されています。特に晩年、市川の自宅から浅草へ通い、「大黒家」の天ぷら、「アリゾナキッチン」のチキンレバー、「尾張屋」のそば、そして通いつめた洋食店での「カツ丼」や「ビフテキ」に舌鼓を打つ様子は、読者の食欲を強く刺激します。贅沢な美食ではなく、自分が心から旨いと思える決まった味を一人静かに楽しむ姿勢は、現代の「ソロ活」や「孤独のグルメ」の原点ともいえる生活美学です。
世間からは「偏屈な奇人」「好色な老人」といったステレオタイプで見られがちだった荷風ですが、日記から浮かび上がるのは、徹底して他人に干渉せず、同時に他人からの干渉も許さない、洗練された個人主義者の姿です。遺産や著作権を巡る親族との葛藤に苦しみながらも、自分の機嫌は自分で取るという強固な自立心が一貫して描かれています。