延喜・天暦の治の真実|醍醐・村上天皇親政の光と影を徹底解剖

延喜・天暦の治の真実|醍醐・村上天皇親政の光と影を徹底解剖

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平安中期の政治史を俯瞰する上で不可欠となるのが、天皇親政と摂関政治の違いです。通常、幼少の天皇を補佐する「摂政」、成人後の天皇を後見する「関白」が政権中枢を掌握する摂関政治に対し、天皇親政は最高権力者である天皇自身が太政官組織を通じて直接政務を裁可する政治形態を指します。学校教育や一般の通説では、延喜・天暦の時代は「藤原氏の専横を退けた清廉な親政期」と説明されがちですが、政策決定プロセスの詳細を見るとその構図は単純ではありません。

そもそも醍醐天皇が親政を敷いた理由は、父である宇多天皇の周到な人事戦略に端を発します。宇多天皇は、強大化しすぎた藤原北家の権力を抑制すべく、関白・藤原基経の死後に摂関を置かず、学学者として傑出した実務能力を誇る菅原道真を異例の抜擢で右大臣に据えました。897年に13歳で即位した醍醐天皇に対しても、宇多上皇は道真と藤原基経の長男である藤原時平を左右大臣として並立させ、若き天皇を補佐させる複眼的な権力均衡を図ったのです。

一方、村上天皇による天暦の治の特徴は、積極的な政治主導というよりも「権限委譲と儀礼の重視」にありました。946年に即位した村上天皇は、先代の朱雀天皇の代に関白を務めた藤原忠平が949年に没した後、あえて新たな関白を任命しませんでした。しかし、これは藤原氏を排除したのではなく、忠平の子である実頼・師輔兄弟が太政官の首班として事実上の国政差配を握っており、形式上関白という官職が空席だったに過ぎません。名分としての「親政」と、実務における「貴族寡頭政」の絶妙な共存こそが、この時代の真の姿でした。

中村 さくら
著者

中村 さくら

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。