「頭の中では当時のスピードで疾走しているのに、足が全く前に出ず、もつれて顔面からグラウンドに転倒した」――運動会のお父さん徒競走で毎年繰り返される悲劇です。なぜ大人は、あれほどまでに100メートルを走れなくなってしまうのでしょうか。単なる「スタミナ不足」「体重増加」で片付けられない、100メートル走タイムが遅い理由を運動生理学とバイオメカニクスから解剖します。
第一の決定打は、「速筋線維(Type IIb線維)の選択的脱落」です。筋肉は持久力を担う遅筋と、爆発的パワーを担う速筋に大別されます。加齢に伴う筋委縮(サルコペニア)は、日常生活で使われない速筋から優先的に始まります。デスクワーク中心の生活を送っていると、30歳を過ぎた時点で年間約1%ずつ速筋が失われます。大人が久しぶりに全力疾走しようとしても、地面を瞬間的に弾く筋出力の絶対値が物理的に失われているのです。
第二の要因は、「伸張反射(SSC:ストレッチショートニングサイクル)の機能停止」です。スプリントとは、接地した瞬間にアキレス腱や大腿四頭筋がゴムのように引き伸ばされ、その反動で弾性エネルギーを爆発させて前進する運動です。しかし運動習慣のない大人は腱が硬化し、反射のタイミングがズレてしまいます。結果として「地面を踏みつけるだけで、反発を前への推進力に変えられないバタバタ走り」に陥ります。
そして第三の構造的問題が、「大腰筋と殿筋群の機能不全による前傾の破綻」です。長時間の座位姿勢によって骨盤が後傾し、腸腰筋が拘縮した大人は、脚を前方へ素早く引き上げることができません。ピッチ(回転数)が上がらないため、歩幅(ストライド)を無理に広げようと脚を前方に投げ出す「オーバーストライド」を引き起こします。これがブレーキとなり、ハムストリングス(太もも裏)に許容量を超えた過負荷がかかり、ブチッと筋繊維が引き裂かれる「肉離れ」を引き起こすのです。