ネット掲示板やSNSで定期的に拡散される言説の一つに、「知能を司る遺伝子はX染色体上に集中しているため、母親の知能が息子・娘に遺伝する」というものがあります。母親の学歴や知的能力が子どもの将来を左右するかのように語られるこの言説は、果たして学術的に裏付けられた事実なのでしょうか。
結論から言えば、学力遺伝において父親と母親の違いによる決定的な優位性を示す明確な遺伝学的エビデンスは存在しません。知能や思考力に関与する遺伝子は、X染色体だけでなく、人間が持つ数万個の常染色体全体に無数に分散して存在しています。知的能力は単一の「頭が良くなる遺伝子」によって決まるのではなく、数千から数万に及ぶ微小な効果を持つ遺伝子の組み合わせ(ポリジェニック)によって発現するため、両親からそれぞれ半分ずつ均等に受け継がれるのが生物学的な事実です。
それにもかかわらず「母親の影響」が強調されてきた背景には、社会構造的な要因が強く絡んでいます。日本の家庭環境において、乳幼児期の言語的コミュニケーションや日々の宿題管理、受験のサポートなどを母親が主導してきたケースが歴史的に多かったため、家庭環境要因(非遺伝的影響)が母親由来のものとして混同されてきた側面が否めません。母親の遺伝子だけを特別視する言説は、複雑な多因子遺伝のメカニズムを過度に単純化した俗説であると捉えるべきです。