この大会を語るうえで絶対に外せない人物が、講道館柔道の創始者であり、アジア初のIOC委員を務めた嘉納治五郎です。当時の国際社会において、アジアの小国に過ぎなかった日本への五輪招致は無謀な挑戦と見なされていました。有力候補地には北欧の強豪ヘルシンキが立ちはだかり、欧米至上主義が根強かったIOC内部で日本支持を固めるのは至難の業でした。
嘉納は70歳を超える高齢の身でありながら世界中を飛び回り、各国のIOC委員と直接対話を重ねました。1936年ベルリンIOC総会における伝説的なスピーチで、嘉納は「オリンピックは欧米だけのものではない。アジアで開催されて初めて真の世界平和の祭典となる」と熱弁を振るい、大逆転で東京開催を勝ち取ったのです。嘉納治五郎の招致活動は、単なるナショナリズムの誇示ではなく、スポーツを通じた東西文化の融合という崇高な理想に裏打ちされたものでした。
しかし、日中戦争の勃発によって国際社会の風向きは急速に悪化します。英米を中心とする諸外国から「侵略戦争を行う国での開催はボイコットする」との圧力が強まるなか、嘉納は1938年3月にカイロで開催されたIOC総会へ出席。病躯を押して各国の説得にあたり、奇跡的に「東京開催維持」の確認を取り付けることに成功しました。だが、その激務が老骨を蝕みます。同年5月4日、帰国の途についていた日本郵船の客船「氷川丸」の船上において、肺炎のため77歳で急逝。手記や乗組員の証言によれば、最期まで五輪の成功と祖国の平和を案じていたと伝えられています。絶対的な推進力と国際的信用を一手に担っていた巨星の失脚により、国内の反対勢力を抑える防波堤は完全に崩壊し、死からわずか2カ月余りで返上への雪崩現象が起きました。