天正7年(1579年)、日本史を揺るがす戦慄の事件が勃発する。信康の切腹と、その生母である築山殿の処刑である。通説では、徳姫が父・信長へ宛てて夫と姑の非行を書き連ねた「十二か条の訴状」を送り、激怒した信長が家康に処断を命じたと語り継がれてきた。だが、2026年現在の学界において、この筋書きを額面通りに受け取る研究者は極めて少数派だ。
近年の実証的な文書研究が示すのは、信長の絶対的命令による粛清ではなく、徳川家中における激しい路線対立の帰結という冷徹な実態である。信康を旗頭とする岡崎派(三河在地勢力)と、家康率いる浜松派(対武田前線部隊)の主導権争い。信長はあくまで「家康の存分に任せる」という調停の立場にとどまり、実子を切腹に追い込んだ主因は徳川内部の権力闘争にあったとする見解が定説化しつつある。訴状とされる文書も後世の軍記物による潤色の疑いが濃く、悲劇の引き金をひとりの女性の筆先に押し付けた歴史叙述の偏向が浮き彫りとなっている。