延喜・天暦の治はなぜ美化された?醍醐・村上天皇の親政と理想化の真相

延喜・天暦の治はなぜ美化された?醍醐・村上天皇の親政と理想化の真相

延喜・天暦の治はなぜ美化された?醍醐・村上天皇の親政と理想化の真相の真相や最新動向に迫る! わかりやすい言葉でご紹介しています。

まずは、醍醐天皇が治めた「延喜の治」と、その皇子である村上天皇が治めた「天暦の治」の基本構造と違いを整理します。両者は一括りに「延喜天暦の治」と称されますが、直面していた国家課題や政治的アプローチには明確な差異が存在します。

項目延喜の治(第60代 醍醐天皇)天暦の治(第62代 村上天皇)現代歴史学における評価・真相治世期間897年〜930年(元号:昌泰・延喜・延長)946年〜967年(元号:天慶・天暦・天徳・応和・康保)約半世紀を隔てた親子二代による「律令制再建」の試行錯誤期。政治体制の建前宇多上皇の後見による親政(摂政・関白の不設置)関白・藤原忠平の死去に伴う親政の開始形式的な「親政」であり、実質は藤原北家の筆頭公卿による主導。主導した実力者左大臣・藤原時平、右大臣・菅原道真左大臣・藤原実頼、右大臣・藤原師輔親政を掲げつつも、藤原氏内部の権力闘争と連携が不可欠だった。主要な経済・土地政策902年「延喜の荘園整理令」、最後の班田収授958年「乾元大宝」発行(皇朝十二銭の最後)国家財政の破綻を食い止められず、貨幣経済の失効と現物経済へ後退。編纂・文化事業『延喜格式』編纂着手、『古今和歌集』勅撰『後撰和歌集』編纂、天徳内裏歌合の開催後世の公家階級にとって「宮廷儀礼・有職故実の絶対的模範」となる。

延喜の治が「律令国家の崩壊を直接的な法規制によって食い止めようとした強硬な改革期」であったのに対し、天暦の治は「承平・天慶の乱による軍事的打撃を経て、地方支配を国司受領へ委ねつつ、中央では儀礼や歌合などの宮廷文化を成熟させた過渡期」という明確な性質の違いを持っています。

山本 拓海
著者

山本 拓海

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。