「出先でバッテリー液が減っていたから、手近にあった水道水を足した」という話を耳にすることがあります。しかし、自動車整備士や蓄電池メーカーの技術者が口を揃えて「絶対にやってはいけない禁忌」と断言するのが、このバッテリー補充液への水道水代用です。この警告は単なる脅しではなく、鉛蓄電池内部で起きる極めて繊細な電気化学反応に基づいています。
自動車の開閉型鉛蓄電池の内部では、正極の二酸化鉛(PbO2)と負極の海綿状鉛(Pb)が、電解液である希硫酸(濃度約30〜35%、比重約1.28)に浸されることで充放電を繰り返しています。この高純度な化学反応サイクルの中に、日本の水道水に含まれるカルシウム、マグネシウム、ナトリウム、鉄、さらには消毒用の塩素イオン(塩化物)などのミネラル成分が混入すると、電解液の純度は一瞬で崩壊します。
水道水に含まれる不純物は電極板に付着し、導電性の局所電池を形成して激しい「自己放電」を引き起こします。さらに塩素イオンは負極の鉛格子を急速に酸化・腐食させ、電極板をボロボロに崩落させてしまいます。これにより、バッテリーは本来の充電能力を失い、数週間から数カ月で完全にセルが死滅(内部ショート)に至ります。
一方、市販されているバッテリー補充液の正体は、蒸留や逆浸透膜(RO膜)、イオン交換樹脂を用いて電気伝導率を極限までゼロに近づけた高純度の「精製水(脱イオン水)」です。蒸発によって失われた水分のみを安全に補填するために作られており、水道水とは分子レベルで純度が異なります。
また、ネット上では「希硫酸が減っているのだから、希硫酸を足せば元気になる」という危険なデマも散見されます。しかし、通常の使用で蒸発して気化するのは「水(H2O)」だけであり、硫酸成分(H2SO4)は基本的に槽内に残存しています。そこに希硫酸を注ぎ足すと、電解液の比重が異常に跳ね上がり、鉛極板の腐食スピードを劇的に加速させてバッテリーを物理的に破壊します。補充すべきは「希硫酸」ではなく、あくまで純度の高い「精製水」だけです。