鬼の強さは、皮肉にも彼らが人間時代に味わった絶望の深さに比例する。猗窩座が武に執着する背景には、病弱な父と愛する婚約者・恋雪を守れず、理不尽な悪意によってすべてを奪われた青年・狛治としての哀痛がある。守るべきものを失った虚無が彼を殺戮へと駆り立て、無惨の血によって記憶を封印された後も、無意識下で「強さ」という呪縛に囚われ続けた。
対照的なのが童磨の空虚である。生まれつき感情が欠落し、新興宗教の教祖として人々の醜い欲望を聞き流してきた彼は、救済と称して信者を喰らい続ける。痛みも悲哀も共感すらも持たない童磨の純粋な狂気は、ある意味で人間性を完全に失った鬼の完成形と言える。哀しい被害者としての側面と、取り返しのつかない加害者としての残虐性。この二面性が複雑に交錯するからこそ、彼らの消滅シーンは単なる勝利のカタルシスを超え、深い余韻を残す。