この言葉の読み方は、一般に「われいがいみなわがし」と読みます。古典的な表現として「我以外皆我が師也(われいがいみなわがしなり)」あるいは「吾以外皆吾師」と表記される場面もありますが、指し示す本質に差異はありません。
字義通りに解釈すれば「自分以外の人は、すべて私の先生である」という意味になります。しかし、この言葉の価値は、単なる「私は未熟ですので皆様を見習います」といった通り一遍の腰の低さにはありません。吉川英治が作品や自省録で語った精神の根底には、極めてシビアな「能動的知性」が横たわっています。
優れた指導者や高潔な人物から作法や技術を学ぶのは容易です。しかし吉川が意図したのは、それだけに留まりません。たとえ自分に害をなす敵であっても、愚行を繰り返す者であっても、あるいは言葉を話さぬ草木や自然の驚異であっても、そこから「なぜあの人はあのような行動をとるのか」「自分はあの過ちを犯していないか」という問いを立て、自己の戒めとして教訓を抽出する態度を意味しています。
つまり、「相手が師にふさわしい立派な人物だから学ぶ」という受動的な態度ではなく、「どのような相手や状況からも学びの種を能動的に収穫する」という、観察者側の強烈な知的好奇心と内省力こそが、「我以外皆我師」という言葉の真骨頂です。