SNSや動画共有プラットフォームでは、時折「ベンチプレス世界記録のフォームは数センチしか動いておらずインチキではないか」「薬物を使っているから認められない」といった痛烈な批判が飛び交い、炎上を繰り返しています。しかし、こうした言説の多くは競技の統括システムに対する誤解から生じています。
まず押さえるべきは、パワーリフティング公式ルールの抜本的な厳格化です。国際パワーリフティング連盟(IPF)は、過度な柔軟性によって胸を異常に突き上げ、可動域を極小化するいわゆる「ウルトラワイド・ハイアーチ」に対し、2023年より明確なメスを入れました。試技中のボトムポジションにおいて「肘関節の後面が肩関節の上面より低くなる位置までバーベルを降ろさなければならない」というデプス規定が新設されたのです。これにより、かつてネット上で物議を醸した「可動域わずか数センチ」の試技は公式大会から完全に排除され、正当な筋出力と深さを持ったフォームのみが世界記録として公認される規律が確立されました。
もう一つの決定的な分断が、ベンチプレス世界記録ドーピング検査の実態です。スポーツ界における公認記録は単一の組織で管理されているわけではありません。IPFをはじめとするオリンピック傘下の公式連盟は、世界アンチ・ドーピング機構(WADA)の厳格な抜き打ち検査を365日体制で実施しており、陽性反応が出たリフターは記録剥奪と長期資格停止の処分を受けます。
対照的に、アメリカを中心とするプロ団体(WRPF、SPF、IPAなど)では、「Tested(検査あり)」と「Untested(検査なし)」の部門が明確に分離して運営されています。Untested部門では、アナボリックステロイドをはじめとする筋肉増強剤の使用が実質的に黙認、あるいは個人の裁量に委ねられており、生物学的限界を突破した超弩級の記録が生まれる温床となっています。ジュリアス・マドックスの354.7kgやジミー・コルブの612.3kgは、この過激なUntestedプロ環境の中で叩き出された「人類の科学的・肉体的リミッター解除の結晶」であり、厳格なアンチ・ドーピング下で行われる公式記録とは土俵そのものが根本から異なっています。