後藤象二郎と坂本龍馬は、最初から志を同じくする仲間だったわけではありません。土佐藩の上士(上級武士)として藩政を牛耳る叔父・吉田東洋を暗殺された後藤にとって、郷士(下級武士)を中心とする土佐勤王党や脱藩した龍馬は、本来であれば命を狙うべき仇敵の間柄でした。実際に後藤は、武市半平太をはじめとする勤王党幹部を容赦なく断罪しています。
運命が劇的に変わったのは1867年、長崎での対談でした。海外情勢や海軍力の重要性を説く龍馬の先見性に触れた後藤は、過去の恩讐を即座に水に流し、龍馬の脱藩を免除した上で土佐藩のブレーンとして重用する決断を下します。この驚くべき切り替えの早さと器量の大きさこそが、後藤の真骨頂でした。
同年6月、長崎から京都へ向かう藩船「夕顔丸」の船中で、龍馬が後藤に提示したとされるのが有名な「船中八策」です。後藤はこの国家構想を土佐藩の公式方針へと昇華させ、歴史を決定づける政治運動へと昇華させていきました。