李鋭の生涯を俯瞰することは、中国共産党が歩んだ光と影の歴史そのものを辿ることに他なりません。1917年、湖南省平江県の知識人家庭に生まれた李鋭(原名:李厚生)は、名門・武漢大学機械系在学中に抗日救国運動に身を投じ、1937年5月に中国共産党へ入党しました。延安時代にはすでにその卓越した文才と論理的思考で頭角を現していましたが、毛沢東が主導した過酷な党内粛清「延安整風運動」ではスパイ容疑をかけられ、軽瀾刑務所に拘禁されるという最初の挫折を味わっています。
建国後、水力発電事業の専門家として手腕を発揮した李鋭に決定的な転機が訪れたのは1958年でした。南寧会議において、長江三峡ダム計画の拙速な着工に異を唱えた彼の明晰な論駁が毛沢東の目に留まり、41歳の若さで水利電力部副部長、そして毛沢東の「兼職工業秘書」に抜擢されたのです。最高権力者の懐刀として政策立案の核心に参画した李鋭でしたが、その蜜月は長くは続きませんでした。
1959年夏、大躍進政策の破綻と農村の飢餓を是正すべく開かれた運命の「廬山会議」において、国防相・彭徳懐が毛沢東宛てに送った直言の手紙に李鋭は深く賛同しました。その結果、毛沢東の激鱗に触れた彼は「彭徳懐反党集団」の一員として指弾され、即座にすべての職を解任、党籍を剥奪されて極寒の北大荒(黒竜江省)へ労働改造処分として追放されます。さらに文化大革命の狂気が吹き荒れる1967年からは、政治犯収容所として恐れられた北京の秦城監獄に8年間もの単独拘禁を強いられることとなりました。
文革終結後の1979年に名誉回復を果たした李鋭は、胡耀邦らの信頼を得て中共中央組織部常務副部長(正部級待遇)に就任。次世代の指導者層を選抜する「第3梯隊」の選考責任者として、後の国家指導者たちの身上調査と抜擢に決定的な影響力を行使しました。しかし、彼が目指した政治改革と党内民主化の道は、1989年の天安門事件における武力弾圧によって決定的な断絶を迎えることになります。