全50作におよぶ歴史の中で、なぜ浅丘ルリ子演じる「リリー」だけが4度(第50作を加えれば5度)も寅さんの前に現れ、物語の中心であり続けたのでしょうか。そこには山田洋次監督の緻密な脚本設計と、主演・渥美清との類まれなる化学反応がありました。
第一の理由は、リリーが「寅次郎の鏡」として造形された唯一のキャラクターだったことです。多くのマドンナは定住生活を営む良家の子女や清楚な町娘であり、風来坊である寅次郎とは生きる世界が異なっていました。しかしリリーは、ドサ回りの旅暮らしを続ける売れないキャバレー歌手。孤独や生活の苦渋、世間の冷たい視線を誰よりも理解している「同業者」であり、精神的な対等者だったのです。
当時の制作関係者の証言や特集インタビューによると、山田洋次監督は浅丘ルリ子の圧倒的な存在感について「浅丘さんが画面に入ると、寅さんがただのおどけ役ではなく、一人の生身の男として傷つき、照れ、本気で生きる表情を見せる」と語っています。日活のトップスターとして数々の修羅場をくぐり抜けてきた浅丘ルリ子の背負う哀愁と凄みが、寅次郎というキャラクターの奥行きを極限まで引き出したのです。
特に第15作『寅次郎相合い傘』での「メロン騒動」や、雨の中で一本の傘を巡って見つめ合うシーン、そして第25作『寅次郎ハイビスカスの花』で沖縄に倒れたリリーを寅次郎が献身的に看病する姿は、男女の恋愛感情を超えた「魂の同盟関係」を感じさせます。山田監督は、シリーズがマンネリに陥りそうになる重要な転換点ごとにリリーを投入し、作品のリアリズムとエモーションを再点火させました。