「攘夷(じょうい)」という言葉を構成する漢字を分解すると、「攘」は払う・退ける、「夷」は東方の異民族や未開の地を指します。つまり古代中国の華夷思想を源流とし、本来は「自国の外から迫り来る野蛮な外敵を武力で撃退する」という意味を持ちます。日本においては、幕末に押し寄せた欧米列強を軍事的に打ち払い、国境を侵食させない国防思想として広く定着しました。
この攘夷思想が、天皇を敬い国の真の主権者と仰ぐ「尊王(尊皇)」思想と不可分に結びついたものが「尊王攘夷」です。江戸時代中後期、水戸藩で発展した「水戸学」の大家・藤田東湖らが体系化したこの理念は、当初幕府を倒すためのものではありませんでした。「幕府が朝廷を尊び、幕府の指揮下で全国が一致団結して異国を打ち払う(大政委任の精神)」という、体制擁護の防衛論としてスタートした経緯があります。
しかし、この均衡は外圧によって急速に崩壊します。1853年のペリー来航と攘夷論の台頭を受け、老中首座・阿部正弘は幕府単独での海防決定をあきらめ、前例のない「諸大名への諮問」や「朝廷への報告」を行いました。これが決定的な失政となります。国政の実権を完全に掌握していた徳川幕府が、自ら朝廷へお伺いを立てたことで、眠っていた京都の政治的権威が覚醒。徹底した外国人嫌いで知られた孝明天皇が「異国排斥・鎖国維持」の強い意向を示すに至り、幕府は「朝廷の命令(攘夷)」と「欧米からの開国要求」という巨大な板挟みに追い詰められていきました。