安永7年(1778年)、出羽国山形城下に生まれた大慶直胤(本名・荘司兵兵衛)は、若くして江戸へ上り、新々刀の開祖として名高い水心子正秀の門を叩きました。当時の刀剣界は、実用性を軽視した華美な「新刀」に対する反省から、鎌倉・南北朝時代の剛健な古刀を取り戻そうとする「古刀復古」の潮流が沸き起こっていた変革期にあたります。
入門後、瞬く間に頭角を現した直胤は、師の理論を忠実に吸収しながらも、天賦の才ともいうべき鍛刀技術を開花させました。文政4年(1821年)には出羽荘内藩(現・山形県鶴岡市)の酒井家に召し抱えられ、荘内藩工としての経歴を歩み始めます。この藩工就任こそが、直胤の作刀環境を盤石なものとし、全国的な名声を不動にする決定打となりました。
直胤の生涯における最大の特色は、江戸の鍛冶場に定住するだけでなく、請われれば諸国へ赴いて現地で作刀する「行脚作刀」を精力的に行った点です。伊豆、京都、大坂など各地の有力者や武士の依頼に応え、現地で鉄を選定し、水を用いて刀を鍛え上げました。現存する作刀の銘に「於伊豆韮山」「於京都」といった添銘が数多く見られるのは、直胤が各地で熱烈な歓迎を受け、即座に名刀を仕立てられる超一級の技術者であった確固たる証拠です。
文政4年に「筑前大掾(ちくぜんだいじょう)」を受領、文政9年(1826年)には「美濃介(みののすけ)」へと改め、さらに晩年の嘉永元年(1848年)には「美濃守(みののかみ)」へと進むなど、受領銘の変遷は幕府や諸大名からの絶大な信認を物語っています。剛直でありながら息をのむほど華美な刀身は、幕末の志士や大名家にとって、自らの命を預けるにふさわしい至高のステータスシンボルとして評価されていました。