華々しいスター街道の頂点を極めた菅原さんでしたが、その私生活では筆舌に尽くしがたい深い哀しみを経験しています。文子夫人との間に生まれた長男・菅原薫(かおる)さんは、父の背中を追って俳優・舞台演出家として将来を嘱望されていました。菅原さんもまた、映画や舞台で薫さんと共演し、その成長を誰よりも温かく見守っていました。
しかし2001年10月、薫さんは小田急線の踏切事故により31歳という若さで不慮の死を遂げます。最愛の後継者を失った菅原さんの絶望は計り知れず、当時の追悼会では声を詰まらせ、公の場から一時完全に姿を消すほど深い衝撃を受けました。
この悲劇を契機に、菅原さんは映画界の第一線から徐々に距離を置き始めます。2009年には山梨県北杜市へ移住し、農業生産法人「竜神自然農園」を設立。無農薬・無化学肥料による有機農業へと情熱を注ぎ込みました。土にまみれ、野菜や米を育てる日々を選んだ背景には、「命を育み、大地に根ざして生きることこそが人間本来の姿である」という、愛息の死を通じて辿り着いた独自の死生観がありました。
【プロの結論】昭和映画史と男性美学から読み解く「菅原文太」という生き様
菅原文太という表現者の真の偉大さは、「恵まれた美貌に甘住せず、泥臭い人間味へと自らを解体・再構築した覚悟」にあります。
モデル時代の菅原さんは、間違いなく時代最高峰の美男子でした。しかし、その端麗な容姿だけではスターになれなかった挫折を知っているからこそ、東映移籍後は自らのハンサム性をかなぐり捨て、傷だらけの肉体と濁声で勝負する道を選びました。そして大成功を収めた後も名声に執着することなく、最後は土に還るように農業と反戦平和のメッセージを語り続けました。
「見た目の美しさ」から出発し、「泥臭い人間の業」を演じ切り、最後は「大自然と共生する精神の気高さ」へ至った菅原文太の生涯は、外見至上主義や刹那的なバズが消費される現代において、男の真のカッコよさとは何かを鮮烈に問いかけています。