幕末の長崎において、土佐藩の開成館長崎出張所(土佐商会)の主任に抜擢された弥太郎は、そこで同郷の風雲児・坂本龍馬と深く交差することになります。大河ドラマ『龍馬伝』で描かれた岩崎弥太郎像では、幼少期からの宿敵であり強烈な劣等感を抱くライバルとして描かれ大きな話題を呼びましたが、実際の史料が示す2人の関係は、極めてプラグマティックなビジネスパートナーでした。
土佐藩の後ろ盾を得て結成された龍馬の「海援隊」に対し、藩の金納管理役として資金調達や武器弾薬の購入、船の手配を一手に引き受けていたのが弥太郎です。自由奔放に理想を追う龍馬と、現場で冷徹に勘定書と睨み合う弥太郎の間には、経費の精算や船の運用を巡る激しい衝突が日常茶飯事でした。しかし同時に、弥太郎の日記には龍馬らと酒を酌み交わし、海外情勢や通商国家の未来について熱弁を振るい合った記録が残されており、互いの才覚を認め合う「利害を共有した戦友」であったことが窺えます。
慶応3年(1867年)に龍馬が暗殺され、明治維新によって土佐藩が解体へと向かう中、弥太郎は土佐商会の残余資産と巨額の藩債を引き継ぐ形で九十九商会(つくもしょうかい)の経営権を掌握します。その後、三川商会を経て1873年(明治6年)に「三菱商会」へと改称。この時、土佐藩主・山内家の家紋「三つ柏」と岩崎家の家紋「三階菱」を組み合わせることで生み出されたのが、世界に知られる「三菱マーク(スリーダイヤ)」の由来です。藩の利権と海援隊の遺産を巧みに民営企業へと移行させたこの手腕こそ、巨大財閥誕生の号砲でした。