明治政府が近代化を推し進めるにあたり、西洋音楽の導入は急務でした。しかし、西洋の賛美歌や民謡をそのまま導入する際、宗教色や性的なニュアンスは国家の規律を乱すものとして厳格に排除されました。音楽取調掛の指導者だった伊沢修二らは、「曲調は西洋の機能和声を取り入れつつ、歌詞は日本の道徳教育・修身教育に合致する高潔な詩を乗せる」という方針を貫きます。この文化的フィルターによって、スコットランドの逢瀬の歌は、明治の美しい叙情詩へと生まれ変わりました。
この対比から明確に読み取れるのは、日本における「唱歌」とは、単なる直訳ではなく日本人の心象風景に合わせた徹底的なリライティング(創造的再解釈)であったという点です。西洋のペンタトニック(5音音階)的な親しみやすいメロディを活かしつつ、中身は徹底して万葉集や古今和歌集の系譜に連なる「花鳥風月」と「親思ふ心」を流し込む。この高度な編集手腕こそが、明治の音楽家たちによる最大の功績でした。