犬の口腔環境は人間とは大きく異なります。人間の唾液が弱酸性であるのに対し、犬の唾液はpH8.0〜8.5前後の強いアルカリ性を示します。このアルカリ性環境は虫歯菌の繁殖を抑える反面、唾液中のカルシウム成分が沈着しやすく、歯垢がわずか3〜5日で硬い歯石へと石灰化します。日本小動物歯科研究会などの報告によると、3歳以上の成犬の約80%がすでに歯周病もしくはその予備軍に罹患しているとされています。
多くの飼い主が悩む愛犬の口臭の正体は、歯石そのものというよりも、歯石の多孔質な表面を足場として爆発的に増殖した嫌気性細菌が産生する揮発性硫黄化合物(メチルメルカプタンや硫化水素)です。これは文字通り、組織を腐敗させる有毒ガスに他なりません。
歯周病菌が歯肉溝の深部へと侵入すると、炎症は歯槽骨(歯を支える骨)を急速に溶かしていきます。特にダックスフンドやトイプードル、チワワといった小型犬では下顎の骨がもともと薄いため、骨が極限まで溶けて硬いガムを噛んだ拍子に下顎が折れる「病的下顎骨骨折」が臨床現場で頻発しています。さらに上顎の奥歯の炎症が頭蓋骨を貫通し、眼の下の皮膚が破れて膿が噴き出す「外瘻(がいろう)」を引き起こすケースも後を絶ちません。
恐怖は口腔内だけにとどまりません。炎症を起こした毛細血管から歯周病菌が血流に侵入する「菌血症」を引き起こすと、細菌は全身をめぐり、僧帽弁閉鎖不全症などの心臓弁膜症、慢性腎不全、肝膿瘍の引き金となります。放置された歯石は、静かに愛犬の内臓を蝕み、最終的に命を奪う決定的な因子となるのです。