『遠い山なみの光』を読み終えた読者が最も息をのむ瞬間、それは終盤の第11章で訪れる語り手・悦子の「主語のスリップ(すり替え)」です。イギリスの丘陵地帯で次女ニキと語り合いながら、悦子はかつて長崎で佐知子の娘・万里子を連れて出かけた「平和公園のロープウェイ(ケーブルカー)」の記憶を回想します。しかし、ここで語られる言葉は、それまで独立した他人として描かれていたはずの佐知子と悦子の境界線を完全に粉砕します。
回想の中で、逃げ出そうとする幼い少女に対して悦子は次のように語りかけます。「もし気に入らなかったら、いつだって戻ってこられるんだから(In any case, if you don't like it over there, we can always come back.)」。この台詞は、アメリカ兵の愛人フランクとともに渡米しようとしていた佐知子が万里子に向けて語っていた約束と一言一句違わぬ言葉です。さらに決定的なのは、悦子がニキに対して放つ「あのとき、景子を連れ出さなければよかった」という告白です。長崎の回想では万里子と出かけたはずの場面が、現在では自殺した長女・景子との記憶としてすり替わっています。
文芸批評の場や作家自身の回顧録でも言及されている通り、佐知子と娘の万里子は、悦子自身の罪深い過去と娘・景子の姿を切り離して投影した「身代わりの幻影」に他なりません。悦子は、前夫・二郎との安定した生活を捨て、イギリス人男性について日本を脱出した自らの身勝手な決断、そしてその結果として娘の景子を異国の地で孤立させ、自殺へ追い込んでしまったという耐え難い罪悪感(Guilt)を抱えています。正気を保つため、彼女の意識は無意識のうちに「娘を粗末に扱い、男に溺れて渡航した身勝手な母親」という汚名を架空(あるいは記憶を改変した)の知人「佐知子」へと押し付けたのです。