藤圭子と宇多田ヒカルの母娘関係は、単純な親子の愛情だけでは語り尽くせない複雑さを孕んでいました。藤圭子はヒカルの才能を誰よりも早く見抜き、自らの音楽的遺伝子を託す一方で、急激に世界へ羽ばたいていく娘に対して複雑な感情を抱くこともあったと伝えられています。
昭和・平成の芸能界における「ステージママ」と才能ある娘の関係には、しばしば心理学的な「共依存」や「心理的バウンダリー(境界線)」の崩壊が見られます。宇多田ヒカル自身も、母の圧倒的な存在感と不安定な精神状態の間で、幼少期から「大人の役割」を演じざるを得ない葛藤を抱えていました。
2010年末、宇多田ヒカルは「人間活動」と称して音楽活動を無期限休止します。その背景には、一人の人間としての自立と、家族関係を含む自らの人生の再構築という切実な課題がありました。そして休止期間中に訪れた、最愛の母の悲劇的な死。この喪失は彼女の心を激しく打ちのめしました。
しかし、彼女はその絶望から逃げることなく、音楽へと向き直ります。2016年にNHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の主題歌として発表された『花束を君に』、そして同年のアルバム『Fantôme』は、亡き母への痛切な追悼と、母への深い愛を音楽として結実させたものでした。
『花束を君に』の歌詞に綴られた《普段からメイクしない君が薄化粧した朝》《どんな言葉並べても 真実にはならないから》という描写は、冷たくなった母と対面した瞬間の情景そのものであり、言葉にできない悲痛な別れを静かに受け入れる姿勢が描かれています。愛憎や葛藤をすべて飲み込み、「ただ感謝を捧げる」境地へと辿り着いた瞬間でした。