なぜ他都市ではなく水戸市が県庁所在地となったのか。その答えを導き出すには、江戸時代の水戸藩の歴史と、明治維新直後に行われた廃藩置県の経緯という二つの歴史的転換点に目を向ける必要があります。
第一の理由は、江戸時代における徳川御三家(尾張・紀州・水戸)の一角としての別格の権威です。水戸藩は徳川家康の十一男である徳川頼房を祖とし、水戸黄門として親しまれる第二代藩主・徳川光圀による『大日本史』編纂事業や、第九代藩主・徳川斉昭が開削した日本最大規模の藩校「弘道館」など、幕府内でも傑出した思想的・政治的影響力を行使していました。「天下の副将軍」という通称が示す通り、江戸の北方を防衛し、幕政の中枢と強固なパイプを持つ常陸国(ひたちのくに)の中心地は、何代にもわたり水戸城下に据え置かれていたのです。
第二の決定打となったのが、1871年(明治4年)の廃藩置県とその後の統廃合です。明治政府は旧藩体制を解体する際、まず旧水戸藩の領域を「水戸県」としました。その後、常陸国南部や下総国北部を管轄していた「新治県(にいはりけん)」や「印旛県」などとの度重なる統廃合が断行されます。1875年(明治8年)に現在の茨城県の輪郭がほぼ確定した際、県内最大の人口と交通網、そして武家屋敷や行政機構のインフラをすでに完備していた旧水戸城下が、新政府にとっても最も効率的かつ安定した統治拠点として選ばれたのです。
「なぜ県名が茨城なのに県庁は水戸なのか」という点については、明治政府の命名方針が関係しています。当時の新政府は、旧藩の威光を削ぐために城下町の名前をあえて外して郡名を採用する方針(例:水戸ではなく茨城郡から採った「茨城県」)を取ったケースが多く見られました。県名こそ郡名由来の「茨城県」となりましたが、実際の政治・経済・教育の中心機能は、歴史的に揺るぎない実績を持っていた水戸市にそのまま配置されたのが実態です。