甲斐の国は現在のどこ?山梨県との境界や甲州との違いを徹底解剖

甲斐の国は現在のどこ?山梨県との境界や甲州との違いを徹底解剖

甲斐の国は現在のどこ?山梨県との境界や甲州との違いを徹底解剖の重要なポイントについて、専門知識を取りまとめてご紹介します。

甲斐の国の歴史的実態を体感する上で、絶対に外せないのが戦国大名・武田氏が残した遺構群と、それ以前の古代国家の礎となった史跡の対比です。

甲府盆地を訪れた旅行者がまず目指すのが、武田信玄ゆかりの地の筆頭である躑躅ヶ崎館跡地(つつじがさきやかたあとち・現在の武田神社)です。多くの戦国武将が高石垣や天守閣を備えた城郭に籠もったのに対し、信玄は「人は城、人は石垣、人は堀」の信条のもと、防衛用の詰城(要害山城)を背後に控えさせつつ、平時の政務と生活を平城の館で行いました。館の周囲には重臣たちの屋敷が配置され、扇状地の傾斜と水流を緻密に計算した都市計画が敷かれていました。

しかし、甲斐国の中心地が最初から甲府にあったわけではありません。奈良時代の面影を今に伝える甲斐国分寺跡地(現在の山梨県笛吹市一宮町)を訪れると、その歴史的変遷が如実に理解できます。

天平13年(741年)、聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって創建された甲斐国分寺は、笛吹川右岸の肥沃な平野部に位置していました。国府や古代寺院がこの地に集約されていた事実は、古代の甲斐国の重心が現在の笛吹市周辺にあったことを証明しています。中世に入り、度重なる水害や軍事防衛上の観点から、武田氏の手によって甲府へと中枢機能がシフトしていったのです。

さらに、江戸幕府が整備した甲州街道ルート詳細を辿ると、甲斐国が江戸防衛の最前線であった事実が浮かび上がります。日本橋を起点とし、内藤新宿、八王子を経て小仏峠を越え、勝沼、甲府を通過して信濃国の下諏訪宿で中山道と合流する約205キロメートルの道程です。徳川家康は万が一江戸城が陥落した場合、将軍家が甲府城へと退避する避難路として甲州街道を設計しました。道中に設けられた関所や宿場町の厳重な配置は、甲斐国が持つ軍事的チョークポイント(要衝)としての価値の高さを物語っています。

山口 彩花
著者

山口 彩花

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。