インターネット上の掲示板やSNSでは、道端で瀕死の登山者を追い越して登頂を続ける登山隊に対して「なぜ見殺しにするのか」「人間性を疑う」といった倫理的な批判がしばしば噴出します。しかし、現場の実情を知る山岳関係者は、この批判がいかに平地目線のものであるかを指摘します。
極限のトリアージと「共倒れ」の力学
デスゾーンでは、平地における道徳観やヒューマニズムが物理法則によって無力化されます。自力歩行ができなくなった体重70kg以上の人間を、酸素残量が限られた登山者が支えて下山することは、「救助者も100%確実に死亡する」ことを意味します。
もし自分の予備酸素を遭難者に分け与えれば、数時間後には二人揃って脳浮腫を起こし、命を落とします。現場での不介入は、冷酷さから生じるものではなく、「生存可能な者が生き残るための冷厳なトリアージ(優先順位判断)」にほかなりません。
サミットフィーバーとコンコルド効果の罠
多くの登山者が遭難に陥る背景には、心理学でいう「サミットフィーバー(頂上熱)」と「コンコルド効果(サンクコストの呪縛)」が深く関わっています。
エベレスト登山には、入山料やガイド費用を含めて1人あたり数百万円から1,000万円前後の巨額の自己資金が投じられます。何年もトレーニングを重ね、多額の借金やスポンサー集めをして臨む登山者は、「あと数百メートルで山頂」という地点に到達した際、天候の悪化や体力の限界を示す危険信号を無視して前進を選んでしまいがちです。引き返す勇気を持てないままデスゾーンの滞在限界時間を超過し、下山途中にエネルギーが尽きて「虹の谷」の住人となってしまうケースが後を絶ちません。