観光客が奈良公園を訪れて最も歓声をあげる瞬間のひとつが、鹿がペコペコと頭を下げる「お辞儀」の仕草です。「日本の鹿は礼儀正しい」「お礼を言っている」と微笑ましく撮影する姿が散見されますが、動物行動学の視点から紐解くと、鹿お辞儀の真相は人間側の心温まる解釈とは正反対のメッセージを孕んでいます。
奈良のシカを長年研究している専門家や愛護会の見解によると、あのお辞儀動作は感謝の意を表しているのではなく、「早くせんべいを差し出せ」という催促と苛立ちの表れです。野生のオス鹿同士が秋の繁殖期に角を突き合わせて力比べをする際、相手に向けて頭部を低く下げる威嚇行動がルーツにあります。人間がせんべいを掲げたまま焦らしたり、カメラを構えてポーズを要求したりすると、鹿は興奮を高めてペコペコとお辞儀のテンポを速めていきます。
この状態を放置して焦らし続けると、鹿の心理は「要求」から明確な「攻撃」へと遷移します。頭を急に突き上げて人間を小突いたり、服の裾やカバンに噛みついたり、後ろ足で立ち上がって前足で叩く(前足蹴り)といった攻撃行動に直結するのです。観光客が受ける咬傷事故や打撲の大部分は、この「お辞儀を面白がって焦らした瞬間」に集中して発生しています。鹿がお辞儀をしたときは、喜んでいるのではなくストレスを感じているサインであると正しく認識しなければなりません。