事故から長い歳月が流れた現在もなお、日航機 陰謀論 なぜという検索クエリが絶えない背景には、事故直後の初動対応における重大な混乱と、政府発表に対する根強い不信感がある。ネット上で最も広く拡散されているのが「自衛隊撃墜説の真相」と「米軍救助拒否の理由」にまつわる言説だ。
自衛隊撃墜説の多くは、「自衛隊の訓練用標的機(あるいは模擬ミサイル)が誤って日航123便の垂直尾翼に衝突し、その失態を隠蔽するために自衛隊機が機体を追尾して墜落させた」というプロットを基盤としている。この説が信憑性を帯びたかのように語られるきっかけとなったのが、相模湾で回収された機体残骸のカラーリングや、墜落直前に近隣住民が目撃したとされる「尾翼付近の付着物」である。しかし、防衛庁(当時)のレーダー記録や訓練スケジュール、さらには回収された垂直尾翼部材の破断面解析において、火薬反応や自衛隊機特有の塗料成分は一切検出されていない。
一方、米軍救助拒否説は、横田基地所属の米空軍輸送機C-130搭乗員であったマイケル・アントヌッチ元中尉の手記を発端とする。彼は「墜落直後に現場を発見し、米海兵隊の救助ヘリを誘導して現場上空に待機させたが、日本政府側からの要請により救助作業を中止して帰投した」と証言した。この手記の一部が切り取られ、「生存者を口封じするために日本政府が米軍の救助を意図的に断った」という飛躍したストーリーへと変貌を遂げたのである。
だが、防衛省や米軍基地の公式記録、当時の日米安保条約に基づく救難調整手順を精査すると、現実は極めて事務的かつ構造的なすれ違いであったことが判明している。事故当夜、日本側の捜索救難本部(救難救助調整本部:RCC)は激しい情報錯綜の中にあった。墜落地点の緯度経度が定まらず、長野県側なのか群馬県側なのかすら特定できていなかった段階で、主権国家としての指揮権の所在や救助隊の安全確保が整わないまま米軍独自の展開を容認することは、当時の法制度・運用規定上きわめて困難であった。悪意による人命の見殺しではなく、硬直した縦割り行政と通信調整の不手際が招いた悲劇的なタイムラグというのが、客観的な資料が示す冷厳な真実である。