取材現場で元選手たちから最も多く聞かれるのは、契約満了を告げられた直後の「激しい心理的空白」です。幼少期から「サッカーが上手い自分」として周囲から賞賛され、プロとしての自己同一性を確立してきた彼らは、スパイクを脱いだ瞬間に強烈なアイデンティティ・ロス(喪失感)に襲われます。
あるJ2・J3クラブで10年間プレーした元ディフェンダーは、引退時の心境を手記のように振り返っています。
「12月の初旬、クラブハウスの個室で『来季の契約を結ばない』と言われた帰り道、車のハンドルを握りながら視界が真っ暗になりました。明日から自分は何者なのか。サッカー選手ではない自分に、社会的な価値など1ミリも存在しないのではないかという恐怖でした」
スポーツ心理学の領域では、競技に過度に自己を同一化させる状態を「アスレチック・アイデンティティの早期完了(フォアクロージャー)」と呼びます。競技だけに100%集中することを美徳とする日本のスポーツ育成環境では、引退後の人生を考えること自体が「逃げ」「甘え」と見なされがちでした。その結果、他分野への心理的バウンダリー(境界線)を広げる準備ができないまま社会へ放り出され、適応障害や無気力状態に陥るケースが後を絶ちません。
この溝を埋めるため、近年のJリーグや各クラブはキャリア研修やインターンシップ制度を拡充しています。しかし、ピッチ上で即座に結果を求められるプレッシャーのなか、20代前半の現役選手が自発的に引退後を見据えて学ぶ時間を確保するのは、現実問題として極めて困難な作業です。