板垣退助が結成した政党の全軌跡|自由党から隈板内閣誕生の真実

板垣退助が結成した政党の全軌跡|自由党から隈板内閣誕生の真実

板垣退助が結成した政党の全軌跡|自由党から隈板内閣誕生の真実の基本情報から最新動向までを徹底的にカバーしました。

日本史上で最も有名なフレーズの一つである「板垣死すとも自由は死せず」。教科書やメディアでは「暴漢に刺され血まみれになった板垣が、倒れ際に叫んだ気骨ある言葉」として流布していますが、実際の現場状況を当時の証言記録から精査すると、異なる実態が浮かび上がってきます。

事件が起きたのは1882年(明治15年)4月6日、岐阜の神田座で行われた遊説演説会の直後でした。会場を出た板垣は、相原尚褧(あいはらしょうけい)という男に短刀で胸部などを複数回刺害されます。この遭難現場において、板垣本人がその場で大声で「板垣死すとも…」と叫んだのかどうかについては、同席者の回顧録によって記述に揺れが存在します。

当時の随行員であり、板垣を抱き起した内藤魯一や現場にいた青年党員の証言によれば、負傷直後の板垣は呻きながらも「吾死スルトモ自由ハ死セン(我死すとも自由は死せず)」と口にしたとされます。一方、板垣自身の回顧録『我が国憲政の由来』や関係者の後年の回想録では、「その場で絶叫したというよりは、救護される過程で放った言葉を、内藤魯一が報道陣や全国の同志に向けて電報でドラマチックに脚色・発信した」という側面が強いことが指摘されています。

さらにネット上の俗説で「板垣はこの事件で亡くなった」と勘違いしている読者も散見されますが、板垣は一命をとりとめ、明治を生き抜き、大正8年(1919年)に82歳の天寿を全うするまで政治活動を続けました。晩年には台湾の民族差別撤廃を掲げた「台湾同化会」の設立に関わるなど、生涯を通じて平等の理念を追求し続けています。

加えて、板垣を巡るもう一つの歴史的疑惑が「洋行問題」です。遭難事件の直後、板垣は後藤象二郎とともに欧米視察へ旅立ちますが、その渡航資金の一部が実は政府(三井財閥経由)から極秘に出ていたことが発覚。自由党内では「板垣は政府に懐柔されたのか」と激しい内紛が勃発し、大隈重信の改進党からも猛烈なスキャンダル攻撃を受けました。理想家でありながら、政治資金の現実問題に揺れ動いた人間臭い側面も、板垣という人物のリアルな実像です。

斉藤 蓮
著者

斉藤 蓮

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。