地図を開くと突如として現れる「理想郷」というユートピア的な地名。千葉・勝浦のこの地がそう呼ばれるようになった背景には、単なる景観への賛美にとどまらない、大正から昭和初期にかけての壮大なリゾート開発の歴史と文化人たちの足跡が刻まれています。
勝浦市観光協会や郷土資料の記録によると、この岬一帯はもともと「明神岬」などと呼ばれていた静かな漁村の磯場でした。転機が訪れたのは大正時代末期から昭和初期のことです。東京の政財界人や実業家たちが、風光明媚で夏涼しく冬暖かいこの特異な気候と景観に目をつけ、「文人や富裕層が集い、知的な思索と保養を行う理想的な別荘地」を建設する壮大なリゾート計画を立ち上げました。この開発構想のキャッチコピーこそが「鵜原理想郷」の始まりです。
この計画に共鳴するように、当時の文壇を代表する文豪たちが続々とこの地を訪れました。白樺派の作家たちをはじめ、高浜虚子や北原白秋、そして歌人の与謝野寛・与謝野晶子夫妻です。特に晶子は昭和10年(1935年)の初夏に鵜原の地へ逗留し、わずか数日の間にこの地の景観や波の音を詠んだ76首もの短歌を残しました。手弱女平(たおやめだいら)に現在も佇む与謝野晶子の歌碑には、彼女がこの海に抱いた激しくも繊細な感情が刻まれています。
戦争の足音とともにリゾート開発計画そのものは立ち消えとなり、広大な別荘地が完成することはありませんでした。しかし、人工的な開発の手から逃れた結果、手付かずの雄大な自然だけが奇跡的に保護され、皮肉にも「真の理想郷」として現代の私たちに受け継がれることになったのです。