元治2年(1865年)2月、新撰組の内部に走った激震は、組織の根幹を揺るがすものでした。隊内の厳しい鉄の掟「局中法度」の第一条には「士道に背き間敷事」、そして「隊を脱するを許さず」と明記されており、違反者は例外なく切腹と定められていました。その法度を執行する最高首脳陣の一人であった新撰組総長の山南敬助が、突如として京都の屯所から姿を消したのです。
脱走を知った近藤勇と土方歳三は、追手として一番隊組長の沖田総司を差し向けます。山南が向かったのは東海道を東へ進んだ近江国大津(現在の滋賀県大津市)でした。京都から大津まではわずか10キロメートル余り、本気で追手を逃れて故郷の仙台や江戸へ逃亡を図るならば、あまりに移動距離が短く、宿場町に滞在していた点に多くの歴史研究者が着目しています。
沖田総司によってあっけなく発見された山南は、一切の抵抗を見せることなく、静かに連行に応じました。当時の証言録である八木為三郎の手記(子母澤寛『新選組遺聞』所収)によると、屯所に戻った山南は取り乱す様子もなく、落ち着き払った態度で近藤や土方と対峙したと伝えられています。山南敬助の切腹の理由が単なる保身や恐怖による逃走ではないことは、この逮捕前後の泰然自若とした振る舞いからも明白です。
山南敬助が切腹という結末を避けられなかったのは、自らが制定に関わった組織規律の絶対性を誰よりも理解していたからにほかなりません。特筆すべきは、切腹に際して山南自らが介錯人として沖田総司を指名した事実です。当時まだ若年だった沖田に対し、取り乱すことなく「総司、頼む」と言い残し、見事に武士としての最期を遂げました。このとき、前川邸の一室には重苦しい沈痛な空気が立ち込め、隊士たちの多くが涙を呑んだと記録されています。