このフレーズの起源は、2000年5月に発生した「西鉄バスジャック事件(ネオむぎ茶事件)」直後のメディア報道にさかのぼります。当時、犯行予告が書き込まれた巨大掲示板「2ちゃんねる」の管理人として、メディアの集中砲火を浴びていた西村博之氏が、テレビの報道特番や取材陣の追及に対して放った言葉が原型となっています。
当時、既存のテレビメディアは「犯罪の温床になる危険なサイトを野放しにしていいのか」「なぜ管理者が書き込みの真偽をチェックして規制しないのか」と厳しく詰め寄りました。それに対し、ひろゆき氏は淡々とした表情で以下のように返答しました。
「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」
この発言の全文と文脈を精査すると、単なる冷淡な突き放しや自己責任論の押し付けではないことが分かります。当時のマスメディアは「公の媒体に流れる情報は、新聞社やテレビ局が裏取りした真実であるべき」という前提でインターネットを断罪しようとしていました。しかしひろゆき氏は、「ネット空間は校閲済みの百科事典ではなく、有象無象の落書きが混在する公衆便所の壁のようなもの」というプラットフォームの本質を喝破していたのです。
つまり、「管理者がすべての嘘を排除することは物理的に不可能であり、利用者の側が『嘘が混ざっている前提』で接しなければ身を滅ぼす」という、通信空間のリアリズムを提示した言葉でした。