本作最大の叙述トリックは、「2人の異なる鈴木」と「同一時間軸の並行進行」を巧妙に隠蔽したプロット構築にあります。乾くるみ氏の緻密な構成力により、読者の脳内には巧妙な認知の錯覚が植え付けられていました。
多くの読者が抱いた「Side-A(静岡での出会いと変貌)を経て、社会人になったSide-B(東京転勤と破滅)へ続く」というタイムラインの認識は、完全な誤認です。実際の時間軸を整理すると、以下の真実が浮かび上がります。
Side-Bの主人公は鈴木辰也(すずき・たつや)。彼はマユとすでに交際しており、静岡の営業所から東京本社へ栄転が決まります。遠距離恋愛が始まったのは1987年7月。辰也が東京の洗練された生活とエリート同僚・石丸美弥子に心を奪われ、静岡のマユを重荷に感じ始めるプロセスがSide-Bで描かれます。
一方、Side-Aの主人公は鈴木夕樹(すずき・ゆうき)。理系の大学生で、体型は小太り、恋愛経験ゼロの朴訥な青年です。彼が合コンの数合わせとしてマユと出会ったのも、奇しくも辰也が東京へ旅立った直後の1987年7月下旬でした。マユは東京へ行ってしまい連絡頻度が落ちた辰也の寂しさを埋めるかのように、地元で純朴な夕樹にアプローチを開始し、彼を自分好みの男へと育て上げていきます。
つまり、Side-AとSide-Bは前編・後編の関係ではなく、1987年7月から12月までの全く同じ5〜6ヶ月間に起きた出来事でした。章題に並ぶ1980年代のヒット曲(「SHOW ME」「ルビーの指環」「木綿のハンカチーフ」など)も、カセットテープのA面とB面を模した構造となっており、物語自体がリバーシブルな時間軸であることを最初から暗示していたのです。