「なぜ茨城県の県庁所在地は茨城市ではなく水戸市なのか」という疑問を紐解くには、1871年(明治4年)の廃藩置県前後に起きた歴史の激動に目を向ける必要があります。江戸時代の水戸は、尾張・紀州と並ぶ徳川御三家の一角「水戸藩35万石」の城下町として天下に名を轟かせていました。水戸黄門こと徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』や、幕末に尊皇攘夷思想の震源地となった水戸学など、政治・思想の中心地として圧倒的な求心力を誇っていたのです。
しかし、明治政府が誕生すると状況は一変します。廃藩置県直後、現在の茨城県域には「水戸県」「土浦県」「笠間県」「松川県」など10を超える小県が乱立しました。その後、1871年11月の第1次府県統合により、県北・県央地域を管轄する県として「茨城県」が誕生します。この際、当初の県庁は水戸ではなく、茨城郡(現在の東茨城郡茨城町付近)に置かれる計画が立てられたことから、郡名を取って「茨城県」と命名されました。
ところが、実際の行政事務を執行するにあたり、城下町として強固な都市基盤と広大な水戸城跡を有していた水戸の利便性が勝り、県庁庁舎は水戸城三の丸へと設置されることになります。その後、1875年(明治8年)に県南地域を管轄していた「新治県」の一部を編入合併して現在の茨城県の輪郭が完成しましたが、県名は「茨城県」のまま、県庁所在地は歴史的大都市「水戸」という組み合わせが定着しました。
ネット上や俗説では「水戸藩が幕末の内紛(天狗党の乱など)で疲弊したため、新政府への恭順・警戒から水戸県の名が消された」といった陰謀論めいた言説が散見されますが、公文書の記録を精査すると、当時の明治政府が推進した「旧城下町色を薄めるために広域地名・郡名を採用する」という全国共通の命名方針と、実務上の拠点配置が合致した結果であることが裏付けられています。