二・二六事件を正しく理解するうえで避けて通れないのが、陸軍内部の熾烈な派閥争いである「皇道派」と「統制派」の違い、そして4年前に発生した五・一五事件との違いです。
当時の陸軍は、思想と戦略をめぐって真っ二つに分裂していました。青年将校らが属していた「皇道派」は、荒木貞夫や真崎甚三郎といった将官を旗頭に掲げ、精神力と天皇親政を至上命題とし、仮想敵国であるソ連への武力進出(北進論)を唱えていました。対する「統制派」は、東條英機や永田鉄山を中心とし、精神論を排して高度国防国家の構築を目指し、国家総動員態勢による計画経済と中国本土への進出を志向していました。
統制派によって左遷・冷遇されていた皇道派将校たちは、「部隊が満州へ派遣される前に東京で決起しなければ、日本は統制派の官僚軍人に牛耳られてしまう」という強い焦燥感を募らせていました。
また、1932年の五・一五事件と二・二六事件は混同されがちですが、その規模や性格には決定的な差異が存在します。
五・一五事件において世論の同情を集めた結果、首謀者たちに死刑判決が出ず軽い刑で済んだことが、「軍事行動を起こせば世論も軍上層部もついてくる」という誤った万能感を二・二六事件の青年将校たちに植え付けてしまったのです。