大牧温泉をめぐっては、旅行者間で誤った認識が広まっているケースが散見されます。その筆頭が「ふらりと立ち寄って日帰り入浴ができるか」という点です。
結論から述べると、現在の大牧温泉観光旅館は宿泊客への安全確保と手厚いおもてなしを最優先とする運営体制を採っており、一般的な予約なしでの日帰り立ち寄り入浴は受け付けていません。遊覧船の定期観光コース(小牧港発着の周遊クルーズ)の中には大牧港に数分間停泊する便もありますが、これは船着き場周辺の景観を楽しむものであり、旅館の湯船に浸かることはできません。大牧温泉の湯を堪能するためには、必ず事前に宿泊予約を入れる必要があります。
また、この温泉の特異な生い立ちを知ることで、旅の深みは格段に増します。大牧温泉の歴史は今から800年以上前、寿永2年(1183年)の源平合戦「倶利伽羅峠の戦い」にまで遡ります。敗走した平家の落人がこの地に逃げ延び、庄川の河原からこんこんと湧き出る温泉を発見して刀傷を癒やしたのが開湯伝説とされています。
江戸時代には加賀藩の湯治場として栄え、古くは川沿いに素朴な湯治集落が形成されていました。しかし昭和5年(1930年)、庄川に東洋一と謳われた小牧ダムが完成したことで状況が一変します。周囲の村落や古道はダム湖の底へと沈み、断崖の上に位置していた大牧温泉だけが奇跡的に水没を免れました。陸路をすべて失った旅館は廃業の危機に直面しましたが、初代経営者たちが「船でしか行けない秘湯」として再興を決断。ダム建設という近代化の歴史的激動が、逆説的に唯一無二の孤島温泉を生み出したのです。