日本の医療・化学薬品管理史において、今なお最大の悲劇として語り継がれているのが、1982年(昭和57年)に東京都八王子市で発生した八王子歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故の真相です。
当時、虫歯予防の目的で小児の歯面に塗布されていたのは安全な「フッ化ナトリウム(NaF)」の水溶液でした。しかし、該当の歯科医師が薬品卸業者へ発注する際、薬品知識の不足から誤って猛毒の「フッ化水素酸(HF)」を注文してしまいました。さらに悲惨だったのは、卸業者側も劇物譲受書などの法的手続きを形式的に処理し、毒物劇物取扱責任者の確認が形骸化したまま濃度の高いフッ化水素酸を納品してしまった点です。
治療当日、歯科医師は納品された無色透明の液体を何の疑いもなく、3歳女児の乳歯に綿球で塗布しました。塗布された瞬間に劇烈な化学熱傷が生じ、女児は激痛から診療台の上で激しく身悶え、泣き叫びました。しかし医師側は「子どもが治療を嫌がって暴れているだけだ」と信じ込み、口内に残った薬剤を洗面器へ吐き出させるにとどめ、適切な洗浄や解毒処置を行いませんでした。
女児は間もなく急性低カルシウム血症から痙攣を起こし、搬送先の病院で心停止により息を引き取りました。付き添っていた母親も、暴れる女児の口元を押さえた際に漏れ出たフッ酸に触れ、指に重度の火傷を負った痛ましい事故でした。
この事故は単なる過失にとどまらず、薬品管理体制の崩壊、卸売業者のチェック機能不全、そして「医療現場における思い込み(確証バイアス)」が重なり合って起きた人災でした。当時の公判記録や報道各社の取材でも、容器ラベルの確認不足や化学物質への無知が指弾され、これを契機に日本国内の毒物劇物取締法および医療機関における薬品検収プロセスは根本的な見直しを迫られました。