滋賀県の歴史を語る上で避けて通れないのが、井伊家35万石の城下町として圧倒的な威容を誇っていた彦根(旧彦根藩)の存在です。なぜ県庁所在地は彦根市にならなかったのでしょうか。
明治初期の廃藩置県直後、現在の滋賀県エリアは南部を中心とする大津県と、北部・東部を中心とする犬上県(県庁所在地は彦根)の2つに分断されていました。1872年(明治5年)9月、政府の主導によって両県が電撃的に統合され、現在の滋賀県の枠組みが完成します。
統合に際して県庁を大津に置くか彦根に置くかは大きな政治的争点となりましたが、最終的に大津が選ばれた背景には以下の決定的な要因がありました。
- 京都・大阪への圧倒的な地理的近接性:東海道の結節点であり、中央政府との連絡や関西中枢とのパイプを太く保つ必要があった。
- 琵琶湖水運のハブ機能:当時は鉄道網が未整備であり、長浜や彦根からの物資・人員輸送は琵琶湖の蒸気船(太湖汽船など)による水運が大津港に集中していた。
- 政治的配慮と近代化のスピード:旧幕府側の大藩であった彦根に対し、大津は天領(幕府直轄地)として早くから開放的な商業都市の性格を持っていた。
巷では「幕末に幕府側(佐幕派)だった彦根藩への懲罰として県庁が置かれなかった」といういわゆる「朝敵・賊軍ペナルティ説」が語られることもありますが、歴史学研究における客観的検証では、水上交通網の利便性と中央連絡の迅速性という合理的・実利的な行政判断が最優先されたことが立証されています。