昭和歌謡史において、藤圭子の経歴と生い立ちほど影を帯び、ドラマチックな軌跡を描いた歌手は他に類を見ません。本名を阿部純子(結婚後は宇多田純子)といい、1951年7月5日、岩手県一関市に生まれ、北海道旭川市で育ちました。父親は浪曲師、母親は目の不自由な盲目の三味線奏者という芸能一家でしたが、その生活は困窮を極めていました。
幼少期から一家で旅回りを続け、家計を支えるために門付け(人家の門口に立って芸を披露し金品をもらうこと)を行っていた経験は、藤圭子の若い頃の心身に消えない刻印を残します。寒風吹きすさぶ北国の路上で鍛え上げられたその声は、少女とは思えないほどのドスと哀愁を帯び、やがて作詞家・石坂まさをに見出されることになります。
1969年、シングル『新宿の女』でデビューを果たすと、わずか1年で約80万枚のスマッシュヒットを記録。翌1970年にリリースされた「圭子の夢は夜ひらく」は空前の大ヒットとなり、薄幸の美少女が絞り出す情念のハスキーボイスは日本中を震撼させました。NHK紅白歌合戦には通算7回出場。ファーストアルバム『新宿の女』がオリコンチャートで20週連続1位、間髪を入れずに発表されたセカンドアルバム『女のブルース』が17週連続1位を獲得し、通算37週連続1位という現在も破られていない大記録を打ち立てたのです。
プライベートでは1971年に歌手の前川清と結婚するも、わずか1年で離婚。その後、芸能界引退と復帰を繰り返す中で渡米し、音楽プロデューサーの宇多田照實と出逢ったことで、彼女の運命は再び激動の渦へと巻き込まれていきます。