インターネット上の掲示板やSNSでは、定期的に「アリスのキャラクターには恐ろしい裏設定がある」「実は精神病棟の少女が見た幻覚だった」「LSDや薬物のトリップ体験を描いた作品である」といったショッキングな都市伝説が拡散されます。しかし、これらの噂を一次資料と照らし合わせると、後世の創作や拡大解釈による誤解であることがはっきりと分かります。
「精神病棟の隔離室説」の真相
ネット上で流布する代表的な俗説に、「アリスは統合失調症や重度の精神疾患を患っており、精神科病棟の拘束衣の中で見た夢がワンダーランドである」というものがあります。チェシャ猫は担当精神科医、白ウサギは冷酷な看護師、ハートの女王は厳格な母親の投影だとする解釈です。
しかし、これは1990年代以降のアメリカのネットフォーラム(Creepypasta等)で創作された典型的な「後付けのダークファンタジー怪談」に過ぎません。本作の成立背景は完全に判明しており、1862年7月4日、キャロルがオックスフォード大学の同僚の娘であるアリス・リデル(当時10歳)とその姉妹をボート遊びに連れ出した際、彼女たちを楽しませるために即興で語り聞かせたおとぎ話が原点です。病棟の暗喩という説を支持する文学的・歴史的根拠は一片も存在しません。
「薬物(ドラッグ)トリップ説」とカウンターカルチャーの誤爆
もう一つの根強い噂が「薬物中毒者の幻覚世界説」です。巨大化したり縮小したりするキノコ、怪しげな煙を燻らせる芋虫(水タバコ)、飲むと体が変化する小瓶の液体(DRINK ME)など、サイケデリックな描写が多いためです。
この解釈が定着した最大の原因は、1960年代後半のヒッピー・ムーブメントにあります。ロックバンド「ジェファーソン・エアプレイン」が1967年に発表した大ヒット曲『ホワイト・ラビット(White Rabbit)』が、アリスの描写をLSDのトリップ体験と直接結びつけて歌ったことから、世界的な誤解が定着しました。
医学界において、自分の体が極端に大きくなったり小さくなったり感じられる知覚変容を「不思議の国のアリス症候群(AIWS)」と呼びますが、これはルイス・キャロル自身が重度の偏頭痛持ちであり、発作の前兆として体験していた空間認識の異常(閃輝暗点や変形視)を作中に反映させたものと考えられています。禁断の薬物ではなく、作者自身の神経生理学的な実体験と言語的遊戯が結実したものというのが、現代の研究者たちの一致した見解です。