慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康率いる東軍と鋭く対立した上杉景勝と直江兼続。米沢への減封という厳しい処分が下された際、京都で浪人生活を送っていた前田慶次は、損得勘定を捨てて上杉家への仕官を決断します。このとき慶次に与えられた禄高は、諸説あるものの新知1,000石(あるいは500石)と伝えられています。大名級の厚遇ではなく、いち客将としての処遇を受け入れた背景には、執政・直江兼続との魂の共鳴がありました。
慶長6年(1601年)10月、慶次は京都を出発し、一路みちのく米沢へと向かいます。この旅程の克明な記録が、慶次自筆の道中記として米沢市立図書館に所蔵される国指定重要文化財『前田慶次道中日記』です。同日記には、道中の名所旧跡に対する深い造詣や、詠み交わした和歌・連歌が細やかに記されており、無頼漢のイメージとは異なる怜悧な観察眼が随所に光ります。
米沢城下から東へ約4キロメートル、松川の清流と山並みに抱かれた堂森(どうもり)の地に居を構えた慶次は、自らの住まいを「一夢庵」と名付けました。「人の世の栄枯盛衰も、乱世の誉れも、すべては一睡の夢に過ぎない」という達観が込められたこの庵で、慶次は読書、連歌、茶の湯、そして近隣の農民や文人との交わりに日々を費やしました。晩年の慶次が遺したとされる「無外引導歌」や各種の詠草からは、牙を抜かれた老将の侘しさではなく、自ら選び取った静寂を心から楽しむ高潔な精神が立ち現れます。