軍の指定工場となったことで原料確保の面では恩恵を受けた竹鶴家でしたが、私生活においてリタが置かれた環境は過酷を極めました。1941年(昭和16年)に太平洋戦争が開戦すると、イギリス出身のリタは一転して「敵性外国人」のレッテルを貼られることになります。
近隣の住民からは「スパイがいる」と根も葉もない中傷を受け、余市の自宅の庭に掘った防空壕を「秘密の潜水艦基地への連絡通路ではないか」と疑われる始末でした。憲兵や特高警察が土足で家に踏み込み、家宅捜索を受ける日々。リタが母国と連絡を取ることは一切禁じられ、音楽を聴くための短波ラジオまでもが押収されました。それでもリタは、髪を黒く染めることもなく、日本人以上に美しい日本語を話し、政孝のために漬物を漬け、味噌汁を作り、日本の土となる覚悟を貫き通しました。
戦後、平和が訪れたものの、長年の精神的ストレスと余市の極寒の環境はリタの肉体を確実に蝕んでいました。リタは重い肺結核を患い、さらに肝硬変などの合併症を併発。闘病生活の末、1961年(昭和36年)1月17日、政孝に看取られながら64年の生涯を閉じました。竹鶴リタの死因は、過酷な時代を生き抜いた心身の疲弊と結核性の疾患、それに伴う肝機能障害の悪化でした。
愛妻を失った政孝の落胆は凄まじく、葬儀の後は自室に閉じこもり、遺影の前から動こうとしませんでした。周囲が政孝の衰弱死を本気で心配するほどでしたが、彼を再び奮い立たせたのは、「世界に通用する最高のウイスキーを完成させる」という、リタと交わした最初の約束でした。1962年、政孝はリタへの追悼の想いを込めて「スーパーニッカ」を世に送り出します。