黄泉の国の御殿の扉越しに、イザナギは妻に「愛しい我が妻よ、私とお前が造るべき国はまだ完成していない。現世へ戻ってきておくれ」と切望します。これに対し、イザナミは悲痛な告白を返します。すでに自らが黄泉戸喫(よもつへぐい)をしてしまったという事実です。
黄泉戸喫の意味とは、黄泉の国の竈(かまど)で調理された食物を口にしてしまうことを指します。古代の呪術的思考において、「同じ火で炊いた食物を食べる(共食)」行為は、その土地の共同体の一員になることを意味していました。冥府の火で作られた食事を胃に収めた瞬間、神の肉体は完全に冥府の住人へと同質化し、生者の世界へ戻る資格を永遠に喪失するのです。
それでもイザナミは「黄泉の神々と現世へ戻れるよう掛け合ってみます。その間、決して私の姿を見ないでください」と言い残し、館の奥へと消えました。これこそが、世界の神話に共通する「見るなの禁忌(タブー)」です。
待ちきれなくなったイザナギは、自らの左の角髪(みずら)に挿していた湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の太い歯を一本折り、火を灯して暗闇を照らしました。そこで彼が目撃した光景こそが、イザナギが逃げた理由の核心でした。
かつて麗しかったイザナミの肉体はドロドロに腐敗して無数の蛆(うじ)が湧き、その頭や胸、腹、手足には八雷神の正体である、恐るべき8柱の雷神(大雷、火雷、黒雷、咲雷、若雷、土雷、鳴雷、伏雷)が轟音を立てて憑りついていたのです。八雷神とは、遺体が腐乱・瓦解するプロセスそのものを神格化した凄まじい自然の暴威に他なりません。
激しい恐怖に襲われたイザナギは、愛をかなぐり捨てて脱走を開始します。一方、恥をかかされたイザナミは激怒し、黄泉醜女(よもつしこめ)や八雷神、1500の黄泉の軍勢を放ってイザナギを追殺させました。イザナギは蔓(かずら)を投げ捨てて山ぶどうを生えさせ、櫛を投げ捨ててタケノコを生えさせて追手の足を止めながら、必死で生と死の境界線へと逃げ延びたのです。
追手がいよいよ背後に迫ったとき、境界に生えていた桃の実を投げつけることで軍勢を撃退することに成功します。この功績により、桃には「意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)」という神名が授けられました。古来、桃が持つ強力な邪気払いの霊力が、神話の決定打として描かれた瞬間です。