ドイツの3B政策とは?3C政策との対立理由と歴史の真相を徹底解説

ドイツの3B政策とは?3C政策との対立理由と歴史の真相を徹底解説

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ヴィルヘルム2世の強硬な世界政策と3B政策の推進は、国際秩序に地殻変動を起こしました。最も大きな衝撃を受けたのが、長年にわたり世界中で植民地をめぐって血みどろの対立を続けてきたイギリス、フランス、ロシアの3カ国です。

ドイツがティルピッツ海軍相のもとで大規模な艦隊法を制定し、イギリス本土を脅かす大海軍の建造に着手すると、イギリスは1902年に日英同盟を結んで東アジアの安全を確保した上で、1904年に積年のライバルであったフランスと英仏協商を締結。さらに1907年には、中央アジアで激しい「グレートゲーム」を展開していたロシアとの間で勢力圏を画定し、英露協商を結びました。

これが三国協商の形成背景です。ドイツの無秩序な膨張に対抗するため、旧来の敵対関係を棚上げして「ドイツ包囲網」が完成した瞬間でした。ドイツ側から見れば、自らの拡張政策が原因であるにもかかわらず、「邪悪な包囲網によって締め上げられている」という被害妄想的な危機感を深めることになります。

その結果、ドイツが頼れる同盟国は、多民族問題を抱えて内部崩壊の危機に瀕していたオーストリア=ハンガリー帝国のみとなりました。オーストリアはバルカン半島への進出を悲願としており、ドイツの3B政策のルート(ベルリン〜ウィーン〜ブダペスト〜バルカン)と完全に利害が一致していました。

しかし、バルカン半島にはロシアが後援するスラヴ系国家の筆頭・セルビアが存在していました。セルビアは「大セルビア主義」を掲げ、オーストリア領内のスラヴ人を統合しようと敵対視していました。ここに、ドイツ・オーストリアのパンゲルマン主義と、ロシア・セルビアのパンスラヴ主義が真正面から激突する火種が完成したのです。バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、1914年6月28日のサライェヴォ事件(オーストリア皇太子夫妻暗殺)を機に、ドイツの3B政策が敷設したレールの上を一気に大戦へと暴走していくことになります。

木村 陽翔
著者

木村 陽翔

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。